代行者

憂鬱な月曜日が過ぎ、億劫な火曜日が来て、中だるみの水曜日。
僕は会社が定めたノー残業デーをしっかり守り退社し、最寄り駅へ到着したところで時間を確認する。そろそろかな、と思ったところで携帯が震えた。
「ラズベリー」からのメールだ。僕はいつも通り返信する。

「今丁度駅だから向うよ」

水曜日は副業の日だ。
社会に縛られている証のネクタイをはずしながら、依頼主が待つ定食屋へ向う。
お店の前では彼女が申し訳なさそうに猫背ぎみに立っていた。
僕はネクタイをはずすことで確保しやすくなった気道にめいいっぱい空気を送り込み、軽く片手をあげながら「やぁ」と言って近づいていく。
彼女が明るく天真爛漫な性格であればハイタッチでも繰り出してくるかもしれないが、それはまずないだろう。
だって、彼女は依頼主なのだから。

いつも通り食券を購入し、いつも通り向かい合う形で二人掛けの席へ座る。
彼女はナス味噌ほっけ定食で、僕は唐揚げ定食。いつも通りだった。
いつも通りいつもの店員が食券を取りに来て、水を置いていく。
お互いの夕飯が目の前に並ぶまで、僕らはいつも通り8割を無言で過ごした。
数分後、僕の目の前には唐揚げとご飯と味噌汁、スライスされたレモン一切れ。
彼女の目の前にはナス味噌と小さなほっけとご飯と味噌汁が置かれた。

いつも通りではなかった。

「すいま……」反射的に店員を呼ぼうとしたが、呼ぶ理由がない。
“正しいものが届いてる”のに、呼んでどうするというのだ。
彼女も気づいた様子で、ジッとテーブルの上を見つめている。
いつもなら”ほっけが忘れられる”のに。店員は、忘れることを、忘れたのか?

僕の副業は「店員呼び出し代行者」。
この定食屋にはファミレスのように呼び出しボタンがなく、自分から声をかけるしかない。
しかし、彼女は僕以上に内向的な性格で自分から店員を呼ぶことが出来ない。
すいませーん! その一言が言えない。代わりに僕が言う。報酬は彼女と共にいる時間だ。



たまたまカウンター席で隣同士に座っていたのがキッカケだった。
彼女はおどおどキョロキョロしていて、店員が来るのを待っているようだった。
「よければ、店員さん呼びましょうか?」その一言で僕らの関係はスタートした。

その時はいつになく僕は高揚していて、自分でも驚くほど積極的だった。
一目ぼれした彼女とこのまま二度と会えなくなるのは悲しく、なんとか繋がっていたかった。
「またこういうことがあるかも知れないから、その時は僕を呼んでください」
目を丸くした彼女の顔は今でも覚えている。
僕らは連絡先交換をした。彼女の名前は知らなかったので、ラズベリーと登録した。
ラズベリーのようなものをあしらったピン止めをしていたからだ。

彼女は毎週水曜、この定食屋で夕飯を食べるという。
それを知った僕も毎週同行した。そして店員に「毎回ほっけを忘れるように」お願いした。
快く応じてくれた店員には感謝の限りだ。

しかし、今日は忘れられなかった。
僕がここにいる理由が無くなってしまった。彼女と一緒にいる理由が……

彼女を見ると、微笑みを湛えていた。
これは事実上の、解雇宣告だろうか。僕は用無しだということか……

「聞いても……いいですか……?」
「えっ?!」

8割無言、1割僕のつまらない話し、1割彼女の相槌。
それがいつも通りの割合で、彼女からの問いかけは今までなかった。
僕は驚いて「どうぞ」と言う他なかった。

「お名前を……教えてください」



後から店員から聞いた話だ。
彼女がもうほっけを忘れないようにお願いしたのだそうだ。
声を発することさえ臆する彼女が、今よりも先の関係に進むため、直接お願いしたのだ。

店員には今までのことについて心から感謝の意を述べた。
「キュピーッド代行も、たまにはいいものですね」
そう言って祝福してくれたので、僕はこの店がある限りは通い続けようと決心した。

僕は副業を辞めた。
それからはお互いの名前を呼び合うことが日課になっている。

スポンサーリンク
マニッキ広告
マニッキ広告

シェアする

フォローする