逆鱗

海岸近くの樹に寄りかかり読書をしていた。
穏やかな風と波音が心地よく、うたた寝をしてしまった。
数分、だろうか。地の震えを感じ目を覚ますと、人影が私の上に落ちている。
覚えていない夢の余韻を引きずりながら、私は人影の主を見た。
美しい女性が立っていた。

目の覚めるような美人、とよくいうが、あれは嘘だ。
本当の美人を見ると、夢現の区別がつかぬようになる。
私は覚えていない夢の続きを見ているのだと思った。

「お目覚めですか」
「あなたは……?」
「わたしは貴方を慕う者。どうかお聞きになってください」

私は立ち上がり、女性と対峙した。
女性は艶のある黒い長髪を風になびかせている。
先ほどまでは穏やかな風であったはずだが、今は少し強い。
うたた寝した束の間にこれほど風が変わるだろうか。
やはり夢なのかもしれない。

女性は髪と同様に艶のある声で言った。

「貴方は殺されてしまいます」

やはり夢だと思った。

「殺される……? 誰にですか。まさか、あなたに?」
「いいえ。お慕いしているのです。わたしは貴方を助けたい」
「では誰に殺されるというのです?」
「龍、です」

笑うことも怒ることも、納得することも出来なかった。
本当かどうかはわからない。ただ、この女性が言うからには嘘ではないのだろう。
そう思わせる説得力があることに、私は畏怖の念を抱いた。

「私はなぜ龍に殺されなければならないのでしょう?」
「貴方だけではありません。この地全ての人が対象です」

龍が人々を呑み込んでゆく映像が頭に浮かんだ。
想像出来てしまったことで、私はこれが夢ではないのだと知った。
夢の中で想像を巡らせたことなど今までなかったからだ。

「わたしは貴方を助けたい。どうか、わたしと一緒に来て頂けますか」
「どこへ連れて行こうというのです? それに、あなたは誰なのですか?」
「わたしは貴方を慕う者。蓬莱の姫です。わたしと一緒に蓬莱へ行きましょう」
「ほうらい? 聞いたことのない地だ。どこにあるのですか」
「天です。わたしは天より参りました」

返答に困ってしまった。
風は一層強さを増し、女性の艶やかな髪を弄ぶ。

「……申し訳ないですが、一緒に行くことは出来ません」
「なぜですか? あなたはこのままでは殺されてしまうのですよ」
「天に風は吹くでしょうか? 波音は届くでしょうか? 私はこの地が好きなのです」
「どうかそう仰らずに、参りましょう。あなたを助けたいのです……」

その後も悲愴な面持ちで女性は懇願してきたが、私は首を横に振り続けるしかなかった。
あまりにも、あまりにも、夢のような現だった。
そんな私の頭の揺れを感じ取ったかのように、地もまた揺れた。

「地震です。龍が怒っているのです。手遅れになる前に、さぁ一緒に」
「龍はなぜ怒っているのですか?」
「人が逆鱗に触れてしまったのです」

龍の鱗のうち一枚だけ、逆さになった鱗、逆鱗があるという。
龍は逆鱗に触れられるのを嫌い、触れた者を殺してしまう。
人がそれに触れたのか。

「もはや龍を鎮めることは出来ません。今すぐ一緒に」


刹那、────────────────────────────────────────
───────────────────────────────────────、咆哮。



なんと雄々しく

なんと壮烈な



今のが龍の啼き声であることなど、初めて聴く私にも解った。
自分が少し震えているのがわかる。この震えは地の震えとは別のものだ。

「見てください! 始まりました!」

女性が指した海を見る。そこから二匹の龍が顔を出した。徐々に全身を顕わにする。
あれが龍か。なんと強大な。なんと、強大な!

「あの二匹の龍が人々を殺すのですか。人が敵う相手ではなさそうだ」
「いいえ、違います」

あぁ、この光景をなんと表せば良いのだろう。
海からは次々と龍が顔を覗かせる。
五匹、六匹、…………十三匹、十四匹、……無数の龍が海から姿を現す。

なんと壮大で、絶大で、なんと神々しく、なんと……美しいのだろう。

龍は対になり、二重螺旋を描きながら天へ吸い込まれて行く。
風は暴風になり、雷鳴と咆哮の重奏が鳴り響く。隣にいる女性の声さえ掻き消されそうなほどだ。
陽は厚く禍々しい雲に隠され、夜が到来したかと錯覚させる。
漆黒の空には無数の龍の紅い目が星のように輝いた。
降り注ぐ豪雨は龍の泪であろうか。

「龍は一体化を始めました!」
「それはどういうことですか!」

もはや声を荒げなければ、お互いの声すら届かない。

「この地の俯瞰図を見たことがありますか! 龍の形をしています! 龍の亡骸こそが大地なのです! 龍は一つになりて落ち、新たな大地となるのです!」

二重螺旋を描く龍は人の遺伝子を想起させた。
一つでも強大な龍が、さらに一つになる。それもこの地の大きさまで。
想像を絶する話だが、今さら疑うはずもなかった。

「時間がありません! もうわたしも往かねばなりません! さぁ一緒に! 蓬莱へ!」
「蓬莱の姫よ! 伝えた通り私はこの地が好きだ! この地が亡くなるのなら私も共に亡くなろう!」
「貴方がこの地を愛するように、わたしも貴方を愛しているのです! 失いたくないのです!」

悲痛な叫びが豪雨に交じり私を濡らす。

「最後に聞かせてくれ姫よ! なぜ私を!」
「わたしは蓬莱の鯛姫! 貴方に命を助けて頂いた! 以来、貴方を想わぬ日などありません!」

鯛を海へ放したことがあった。そうか、あの時の。

「鯛は龍の化身です! わたしも龍なのです! もう一体化しなければなりません! その前に貴方を安全な蓬莱へ! さぁわたしの肩につかまって!」

私は姫の肩に手を置き、力強く引き寄せ抱きしめた。

「さようなら、美しき姫よ」

囁きはきっと届かなかっただろう。
抱きしめる時と同様に、私は力強く姫を突き放し、振り返らぬよう駆け出した。

────。

どこか艶のある咆哮。
けたたましい轟音の中で、その声だけははきと私の耳朶を打った。





数分、だろうか。私は振り返った。
そこにはもう、夢のような現しか残っていなかった。

読書の続きをしようと思ったが、衣嚢に収めていた本は濡れて意味を成さない。
私は本を投げ捨てた。それを風が拾い、どこかへと運んでいく。

姫は一つの大地となり私の上に落ちるのだろう。うたた寝する私に落ちる人影のように優しく。
そうして私もまた、大地の一部となるのだろう。姫と共にあるのだろう。

もうすぐ忘れてしまうのに、私は鮮明に記憶しようと、ずっとずっとこの美しい情景を眺め続けた。

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