嗅覚

「鼻を削ぎ落とそうかと思うんだ」

明るい雰囲気の店内には似つかない物騒な相談だった。

「鼻を低く、とかじゃなく?」
「じゃなく」

整形なんてしなくても、向かいに座る彼は十分に美男子だった。
少なくとも僕にはそう見える。鼻を削ぎ落としたらどうかはわからないけれど。

理由を訪ねようと口を開きかけたタイミングで、女性の店員さんが注文の品を運んできた。
カレーライスとアイスティーが二つずつ置かれる。
二人とも同じメニューなのは、僕が彼の注文に便乗したからだ。
たまに注文を考えるのがめんどくさくなる。

「カレー好きなの?」とさほど興味もないが聞いてみると「俺、コーヒー愛好家じゃなくて本当に良かった」と彼はアイスティーをすすりながら言った。人の話を聞かないタイプかもしれない。

「コーヒー大好きって言うやつはさ、決まって『香りが大切』なんて得意げに言うんだ。もし俺もコーヒー好きだったら香りが大切だって思ったかもしれない。それはイコール、嗅覚が大切ってことになる」
「んー、つまり?」
「つまり、鼻を削ぎ落とそうとは思わなかっただろう」
「……つまり?」
「つまり、嗅覚が大切なら、嗅覚を失おうとは思わなかっただろう」

つまりつまって、少しずつ話が見えてきた。
彼は鼻を削ぎ落としたいのではなく、嗅覚を失いたい。
つまり、そういうことらしい。

「残念だけど鼻を削ぎ落しても嗅覚は残るよ。鼻はフィルターの役割で、実際にニオイを検出するのは脳から直接出てる嗅神経だから」
「う~んそうかぁー。とにかく、嗅覚を停止さえできればいいんだけど」
「どうして?」

遠回りしたが、やっと理由を聞くことが出来た。
彼曰く「嗅覚には逆らえないから」とのことだ。
アイスティーをすすりながら彼は続ける。

「匂いを嗅ぐと理性的でいられなくなるっていうのかな……そういう予感がある。例えば、妖艶な女性が裸で誘ってくるとするだろ。俺はそれに向かって唾を吐きかけるくらいの理性を持ち合わせていると自負している」
「唾を吐きかけるのが理性的とは思わないけど」
「ところがだ、その女性が馨しい香り……なんかこうムラムラくるような香りを発していたらどうだろう。俺は、誘惑に負けてしまうかもしれない。匂いによって理性が屈服してしまうんだ」

彼は常に理性的でいたい、ということらしい。

「今だってカレーを食うなと言われても、俺は我慢できずに食べてしまうだろう」と言いながら彼はスプーンを口に運んだ。

「実際に屈服してしまった経験があるの?」
「幸い、ない」
「なら危惧する必要もないんじゃ?」
「予感があるから怖いんだ。それと理由はもう一つある」

彼は店員さんを呼んで、アイスティーのおかわりを注文した。
男性の店員さんはどこか気だるそうに注文を繰り返して去って行った。

「もう一つの理由って?」
「以前付き合ってた女性が使ってたシャンプー。その匂いを嗅ぐと、その人のことを思い出してしまう。出来るなら思い出したくないんだ。でも、同じシャンプーを使ってる人なんて老若男女そこら中にいる。彼女がそこら中にいるのと一緒だ」
「時間が忘れさせてくれるのを待てば?」
「時の恩恵は俺には与えられないみたいでな。どうしてもその匂いを嗅ぐと思いだすんだ」
「別れたのはいつなの?」
「三年前」
「そのシャンプーが発売中止になるのを祈ろう」

僕は意外にも驚いていた。
偏見だけれど、彼ほどの容姿があるのなら女性との付き合いも豊富だろうと思っていたからだ。
しかし、彼はシャンプーの香りが引き金となり以前の恋人を思い出してしまうことに罪悪感すら感じているようで、それでは女性に失礼だからと新しい恋人を見つけようとはしていないらしい。

「未練があるわけじゃない。でも、忘れられないんだ。だから始末に悪い」
「匂いさえ封じれば、もう彼女を思い出すこともないと」
「その点、彼女は俺よりうわてだった。俺の誕生日に何をくれたと思う?」
「コーヒー豆の詰め合わせ?」
「香水だよ。オリジナルのな。世界で俺しかつけない香り。別れたらもう二度と嗅ぐことはないし、俺を思い出すこともない」

さすがにそれは邪推だろう、と思ったけれど言わなかった。
僕はその人のことを何も知らないのだから。

「その香水だって、渡す一ヶ月も前に用意していたらしいんだ」
「それが何かいけないの?」
「プレゼントを用意するのは渡す三日前がいい。前日だと売り切れだった場合慌ててしまう。二日前なら心変わりしたとき慌ててしまう。四日以前となると鮮度が落ちる。花も枯れるし世界も滅ぶ」
「滅ぶときは一日でも滅ぶと思うけど」
「その点、三日前なら安心だ。無くしたって慌てない、心変わりにも対応可能、世界が滅んだって、せいぜい半分だ」
「まぁ、でも、プレゼントは気持ちが大事だっていうし」
「用意したのが何日前なのかも気持ちを測る定規にならないか?」

彼の言っていることはメチャクチャだったが、どこか説得力があった。

「でも、一ヶ月も前に用意していたってことは、別れることなんて考えてなかったんじゃないかな」
「あんたは一ヶ月先に別れるかもと思って日々誰かと付き合ってるのか?」
「そんなことはないけど」
「じゃあ、そういうことだ」

気付けば話しが大きく脱線してしまっていた。
なんとか軌道修正しなければ、と思っていたところに女性の店員さんがやってきて丁寧な仕草でアイスティーを彼の前に置いた。
空のグラスを回収し、軽いお辞儀をして去っていく店員さんを彼はしばらく見つめていた。

「今の店員さん」
「ん?」

僕はスプーンを口に運びながら相槌を打つ。

「最初のときはカレーの匂いで気付かなかったけど、良い匂いがした」
「馨しい香り?」
「ムラムラするような」
「危ないね、誘われたら」

彼ほどの容姿なら、それもあながちありえない話しではなかった。
携帯番号が書かれているかもしれない、と僕はさりげなく伝票の裏を確かめたりした。

「怖いんだよ……俺は、匂いが、怖い。前の彼女を思い出すのも辛い」
「だから、嗅覚を失くしたい?」
「そう」

店員さんのおかげで図らずしも話しは元の路線に戻ってきた。
彼はストローで氷をつっついている。沈めようとしているのかもしれないが、氷はすぐに浮かんでくる。
きっと彼の状態も似たようなものなのだろう。沈めたい記憶が勝手に浮かんでくる。
もしも氷が永遠に溶けない、けれど沈むこともない、としたら僕ならどうするだろう?
少し彼に同情してしまった。どうにかしてあげたい、という想いがここにきてようやく芽生えた。

「赤ちゃんが可愛いのは必然だ、って話し知ってるか?」
「生きるために必要だからってやつ?」
「そう。赤ちゃんは自力で餌をとれない。だから可愛く振舞って餌を与えてもらう」
「それが?」
「女性が良い匂いするのも、必然かもってな」
「生きるために必要かな」
「生きるためというより、子孫を残すためだな」
「男をおびき寄せるってこと?」
「まぁそういうこと。さっきの店員さんが何かしらの香水をつけてるとするだろ? それと同じ香水を俺がつけるとしよう。でも同じ匂いにはならないと思う。女性はきっと体内で良い匂いを生成出来る仕組みになってるんだ」

いけない。また彼のペースだ。
話しがこれ以上脱線しないように僕は修正を試みる。

「ちょっと整理していいかな。その一、匂いには勝てない。その二、匂いによって以前の恋人を思い出してしまう。だから嗅覚を失くしたい」
「その通り」
「嗅覚を封じるのは最終手段にしよう。まずは匂いに負けないくらい理性が強くなるようにするとか?」
「出来るのなら初めからそうしている」
「出来ないなら努力しろと言っている」
「努力でなんでも克服出来るなんて体育会系な発想は俺には合わない。どう努力していいのかもわからないしな。相手は感覚という名の本能だ。勝てないから封じるんだよ」

たしかに彼の言うとおり、努力のしようがない。
精神論をいくら語ったところで意味がない気がした。

僕は彼に嗅覚を失ってほしくはない。しかし、彼の決意は固い。
嗅覚を失えるのなら、鼻を削ぎ落とすくらいの覚悟なのだ。優れた容姿を代償にしようとも。
なんとかその覚悟を揺らせないかと僕は別角度から攻めることにした。

「カレー好き?」
「ん、好きだけど?」

今度はちゃんと答えてもらえてホッとした。

「僕も好きだよ。味じゃなくて、スプーンで食べるのが楽で良い。でも、君は味が好きでしょ?」
「ああ」
「もしカレーを二度と味わえなくなったら困らない?」
「困るというか悲しいな」
「君はその悲劇を生みだそうとしてるんだよ。風邪をひいたとき、鼻がつまって何を食べても味がしないって経験ない?」

彼も僕が言わんとすることがわかったようだ。

「嗅覚を失えば、味覚も失う?」
「そう。嗅覚と味覚は密接に関係してるんだ」
「……味覚を失ったら、嗅覚は?」
「低下する。少なくとも、僕はさっきの店員さんの馨しい香りとやらに気づかなかったよ」

僕には味覚がない。
彼もそれを知って、僕に相談してきたのだ。

「僕が味覚を失くしたのは必然。赤ちゃんが可愛いくらいにね。生きるために必要だったんだ。だって僕は『どんな味もマズイと感じる』体質だったから。何を食べても吐き出してしまって栄養が摂れなかった。食事は苦痛でしかなかった。今でも周囲がウマイとかオイシイとか幸せそうに言うのも理解出来ない。一度もオイシイなんて思えたことがないから」

彼は珍しく黙って人の話しを聴いている。

「でも、君の場合は違う。生きる上で不自由はあるかもしれないけれど……少なくとも嗅覚があることで死にはしない。嫌なニオイではなく、良いニオイで悩んでいる。正直、僕から言わせてもらえば贅沢な悩みだ」

今のはちょっと卑怯かなと自分でも思う。

「決断するにはまだ早いんじゃないかな。時間が解決する可能性もあるし。それに例えば、匂いに流されて理性を失っても、誰かが止めてくれればいい。友人とか、恋人とかね。前の恋人を思い出すのなら、ヨリを戻すっていう手もあるよ。そうすれば止める人もいて思い出しても問題ないしで一石二鳥。まぁそこは僕がどうこう言えることではないけれど」

彼は数分沈黙した後、アイスティーをすすりながら「もう少し考えてみるよ」と言った。

僕は彼に対して好感を抱いている。
少々粗雑なイメージはあるけれど真摯だし、矜持を持っているのがわかったからだ。
一度も流されたことがないのに、流されることを危惧しているのがそれを物語っている。

もし彼が流されることがあったなら、それを止める友人の役は僕がやりたいなと思ったりもする。
恥ずかしいので口に出したりはしないけれど。

それと本人は未練がないと言っていたが、前の彼女を今も想っている。
だからこそ忘れたいのではないか、と邪推してみるが、それは本人にしかわからない。

もしそうなら、伝票の裏に書かれていた携帯番号のことは教えない方が良いかな?

そんなことを考えながらスプーンを口に運んだ。
何の味もしなかったが、この食事は嫌いではないな、と思った。

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