だってトマトが絶品だから

遅刻の認識には二種類ある。
今からでは間に合いそうにない暫定型か、既に約束の時刻が過ぎている事実型だ。
僕の場合は明らかに後者で、また多くの人が絶望より開き直りに徹するのも後者だった。
しかし僕は絶望も開き直りもしない。そんな時間すら惜しいからだ。
寝癖も直さず顔も洗わずトイレさえ我慢して、韋駄天走りで駅前の喫茶店へと急いだ。

彼女の待つ喫茶店へ。

ゼェ、ハア、と息を荒くする僕とは対照的に店内に流れるゆったりとしたジャズ。
彼女が待つ窓際の席へ行き、鋭い視線が僕を捕らえたところで「ごめん」と言った。

彼女は無言で読みかけの本を僕に投げつけた。
僕はただ「ごめん」と言った。

彼女は目の前にあった水をグラスごと僕に投げつけた。
頭からそれを被った僕は、寝癖を直してついでに顔も洗って「ごめん」と言った。

彼女は食べかけのサンドウィッチを僕に投げつけた。
僕はそれを口でキャッチして咀嚼した。トマトが絶品だった。
「美味しいね」とくぐもった声で感想を述べた後、ゴクンと鳴らし「ごめん」と言った。

彼女はかけていた眼鏡を外して僕に投げつけた。
僕はそれを顔でキャッチし「ごめん」と言った。それと「可愛いね」と付け足した。
彼女が少し紅く見えるのは怒りなのか照れなのか、僕の視界がクッキリしたからなのかはわからなかった。

彼女は傍にいた店員を僕に投げつけた。
僕は大魚を釣った時に記念撮影する時のように店員を抱きかかえてからズボンだけ剥ぎ取ると、店員を後ろへ投げ捨てた。
ズボンを履き忘れていた僕に店員のズボンはピッタリとフィットした。
「似合うかな」と感想を聞いた後「ごめん」と言った。

彼女は彼女自身を僕に投げつけた。
トルネードスピンしながら水平に向ってくる彼女の器用さに素直に感心した。
両手を重ねミットにおさめるように彼女の頭を受け止め、回転が止まったところで僕たちはようやく向かい合った。


抱きしめて唇を重ねた。


僕は「ごめん」と言った後「我慢できなくて」と付け足した。
彼女は微笑ながら首を軽く横に振った。

「実は今、尿意を我慢してるんだ。家でしてこなかったのは、少しでも早く君に会いたかったから」

ゆったりと流れていたジャズがイッツ・オンリー・ア・ペーパー・ムーンに変わった。
一転して明るい曲調が店内を包みこむ。彼女が腕を組んできた。
店を出ようとドアへ向うと、店員と老人が折り重なって倒れていた。
それを見てサンドウィッチの味を思い出し、この店にはまたこようと思った。

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